過程的なノート

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「民主主義の未来を考えるための覚え書き」 (2017/12/14)

✳︎以前に他の場所で公開したものです。誤字脱字、誤植を治して、加筆したものになります。


「民主主義の未来を考えるための覚え書き」

(2017/12/14)

https://www.twitlonger.com/show/n_1sqc2n6

〈メモ〉

「民主主義の未来を考えるための覚え書き」



 昨日、古本屋で、堤未果さんの新書があったので手にとった。

IWJさんで堤さんにインタビューしている。その時、ライブで視聴した。IWJの岩上さんのインタビューでは、つい先日、ヨーロッパの新しい民主主義運動の動向を紹介している。例えば、イタリアの「五つ星運動」やスイスの民主主義や社会がどうなっているのかについて岩上さんが佐々木重人さんにインタビューしている。11月26日、イタリアのリカルド・フラカーロ下院議員が来日している。


 堤未果さんは、アメリカでの格差の拡大の背景を追ってきた。堤さんのみたアメリカはいったいどのようなものだったのだろう。市場の暴走に対して、市場が万能であるといった楽観では、人間らしい生という観点から危機にあるというものだろう。それを、格差構造の拡大の観点から、追ったといえる。


「 その実態(*アメリカの格差拡大の背景〈私が入れた〉)が、今アメリカ社会のすみずみから吹き出している問題の1つを検証し、それらをつなぎ合わせると鮮明に見えてくる。

 そこに浮かび上がってくるのは、国境、宗教、性別、年齢などあらゆるカテゴリーを越えて世界を二極化している格差構造と、それをむしろ糧として回り続けるマーケットの存在、私たちが今まで持っていた、国家単位の世界観を根底からひっくり返さなければ、いつのまにか一方的に呑み込まれていきかねない程の恐ろしい暴走型市場原理システムだ。

 そこでは「弱者」が食いものにされ、人間らしく生きるための生存権を奪われた挙げ句、使い捨てにされていく。

 それは日本国憲法第25条でいう、すべての国民が健康で文化的な最低限度の暮らしを求める権利を侵されることだ。

 世界を覆うこの巨大な力によって国民がそれを奪われ、「民営化された戦争」に商品として引きずり込まれていくという流れは、フェルナンデス夫婦を始めこの本に出てくる様々な例を通して差し出されている。

 「教育」「いのち」「暮らし」という、国民に責任を負うべき政府の主要業務が「民営化」され、市場の論理でまわされるようになった時、はたしてそれは「国家」と呼べるのか?私たちには、一体この流れに抵抗するすべはあるのだろうか?

 単にアメリカという国の格差・貧困問題を超えた。日本にとって決して他人事ではないこの流れが、いま海の向こうから警鐘を鳴らしている。」(堤未果『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書2008年))


 堤さんは、この書籍のプロローグの絞めくくりでこのようにいっている。堤さんの問題意識は、よくあらわれているのではないか。


 こういった課題にどのように社会として向き合っていき、課題として、解決を図っていけばいいのかは、民主主義の国々では、民主主義的に解決していくことになる。ヨーロッパの新しい民主主義の動向は、日本でも注目している人がいる。日本でも課題はあり、その課題の解決に対する憤りの声は大きい。そういった背景があり、日本でも、新しい民主主義の動向に注目する人がいる。新しい民主主義の運動では、草の根からというものがあるが、市民(・国民)から、問題意識を共有して、課題の解決を目指そうというものだ。


 私たちの生きる社会の中に組み込まれた資本主義は完全なものではない。この資本主義の欠点を放置してしまうと格差が拡大した。この課題にどのように向き合っていけばよいのかだろうか。(✳︎ この段落は2022年6月4日に加筆)



<参考>

「人間が人間であることをまもらなければならない。これは人間の同一性を守らなければならないということである。われわれは人間らしさの観念と現実を、歴史と世代を通じて伝えていかなくてはならない。

 しかし、人間とは自分自身の同一性ですらも不確かな存在なのだ。その人間が人間性の同一性を守ることができるのかどうか。できるかどうかという以前に、その同一性とは何かなのか。こうして私たちは新しい問いの前に立つ。読者はここで存在論としての本来の倫理学の入口に到着したことになる。」(P245加藤尚武『現代倫理学入門』)



伊「五つ星運動

幹部来日「日本の市民もすぐに行動を」(毎日新聞

https://mainichi.jp/articles/20171127/k00/00m/030/054000c













在日ロシア人とウクライナ人に対する日本について思うことがあった

在日ロシア人とウクライナ人に対する日本について思うことがあった

2022/05/28


ウクライナでは悲劇が繰り返されている。このウクライナとロシアの戦争はいつまで続くのだろうか。誰かこの戦争を止めることが出来ないものだろうか。そんな事を思う日が続く。テレビなどを見ているとウクライナから日本に避難してきた者について報じているものがあった。一方で、日本にいるというロシア人が現在のロシアについて、批判しているものがあった。ここで少し感じる事があった。日本国はロシアに対する制裁を課している。欧米の対露制裁に協調したかたちになった。さらにロシア大使館にいる外交官などに国外退去を求めた。


4月8日、森健良外務事務次官は、ミハイル・ユーリエヴィチ・ガルージン駐日ロシア連邦大使を呼び、8名の駐日ロシア大使館の外交官及び通商代表部職員の国外退去を求めた(✳︎外務省ホームページから)。


欧米の国々も次々にロシア大使館の外交官を追放している。日本政府のロシアに対する施策の変化は、こういった動きに協調したものとなっている。


日本の政策の変化は仕方がないところがあるだろう。そのために理解できる。しかし、外交官を国外退去にすることについて少し引っかかるところがあった。外交的な交渉は戦時下でも必要ではないか。こういった観点から、安易に歓迎できない。


こういう状況であるから、日本にもいるロシア人やウクライナ人について、思うことがある。日本にいるロシア人がプーチン大統領を批判するという番組内容についてである。ロシア国内で、プーチン大統領を批判する者がいるという報道があった。当然、ロシア人の中にも現在のロシアの体制について批判的な意見を持つ者がいるのだろう。しかし、ここは立ち止まって考えてほしい。私たちがいるのは日本といわれる地域である。一応、民主主義の国となっている。ロシアでは、大統領の権力が強化されているようだ。メディアへの規制が強化されているという報道があった。


日本にいるロシア人が母国であるロシアの現状についてどう思っているのかは気になるところである。しかし、日本にいるロシア人に安易にロシアについてどう思うのか訊くという行為については引っかかる。日本で母国であるロシアやプーチン大統領を批判しているロシア人がいるという。彼らは、ロシアに帰ることが出来るのだろうか。大丈夫なのだろうか。心配になるのだ。きっと日本にいるとロシアに対する非難や批判を目にすることが多くなっていることだろう。ウクライナに侵攻したのはロシアであるので当然、日本ではそうなった。そして、ソ連邦崩壊前の東西冷戦時は、日本はソ連と対立する西側の一員だった。彼らの置かれた環境とはそういうものだ。特にメディアはここのところをきちんと考えて番組を制作しているのだろうか。気にかかっている。


現在、欧米、そして日本は、ロシアに対して厳しい。ロシアに制裁を課している。こういったことを日本にいるロシア人は、きっと日常的に感じていることだろう。そういった在日ロシア人をカメラの前に無理強して、立たすようなことをしてはいないだろうか。カメラを向ける時は、きちんと配慮して意見を訊いているのだろうか。日本にいるロシア人やウクライナ人に奇異な視線をむけるような状況を生み出してはいないだろうか。ロシア人やウクライナ人を差別するようなことが生じてはいないだろうか。

思い出してほしい。COVID-19による感染症が拡大してパンデミックになった。医療関係者や感染症の陽性者に対して一部であろうと思うが差別が生じた。こういったことは小さなこととして片付けてよいはずはない。ここは、戦場となっているウクライナから遠く離れた日本である。ここで、ロシア人やウクライナ人に対する差別は必要ない。ましてや、ロシア人とウクライナ人が争う必要はない。



日常的にもう少しマスクを着用することについて考えてみる

パンデミックになり、マスクを着用することが、日常の光景のうちとなった。パンデミック以前に日常的にマスクをしている人がいると、特殊な嗜好のように感じていた。

Covid-19による感染症の拡大の影響が大きくなる以前、日常的にマスクをすることはなかった。普段の生活では、マスクをすることは特別なことであった。マスクをするのは風邪をひいたりした特別な場合だった。風邪をひいてもいないのに予防的にマスクをするようなことはしなかった。

この2年余の間、マスクを着用することが日常化した。人混みの中ではマスクを着用することがエチケットのように感じられる程となった。マスクを着用したままでも、咳をすることが気まづいことのように感じた。同じような経験がある者は少なくなかろう。咳をしたときの落ち着きの悪さを経験したことはないだろうか。

私にとってパンデミック下、普段からマスクをしているという経験は、それ以前に風邪をひいた時にマスクを着用した総数を軽く上回るものとなったことだろう。ほとんどの者がそうなのではないかと想像する。

マスクを着用することで感染リスクを低減できるのなら、機会費用はそれ程高くないだろう。もちろん個人差はあるだろうし、環境や条件の違いによって変わりうることである。

個人において、それぞれが日常的にマスクを着用するという経験をしてきた。この経験は大きなことだろう。マスクの種類が増えて、ファッション性を考えることも出来るようになった。これは一例であるが、経験が大きいことの証左といえよう。


今一度、マスクを着用することで感染リスクを少しでも低減しようという行為の便益について、積極的に評価することは悪くないように思う。

用心の為に、少し様子見をするという意味を加味して、人混みの中では注意して、マスクを着用することを積極的に評価してみても良いのではないか。個人がこの2年余の間にマスクを着用してきたという経験はそんなに小さなものではないはずだ。



〈参考〉

マスク着用緩和巡り岸田首相揺れる 野党議員「統一見解を」(カナロコ by 神奈川新聞)

https://news.yahoo.co.jp/articles/b37a955c72d9aaa1d72d80a6c6fef5ef89aee051


「外交ボイコット」という言葉を聞いて思うこと


 オリンピック・パラリンピックの政治的な利用は、その理想に反する。

 アメリカと中国の間の対立は、大国間の関係、国と国の関係から生じている。
外交ボイコットは、選手団を送らないということではないみたいで、通常通り競技は実施できるのであればひとまずは安心できそうだ。しかし、外交ボイコットを表明する地域が増えていけば中国に対する圧力になることには違いない。
 ロシアとウクライナの間では緊張が高まってきている。
 感染症の状況は、オミクロン株に感染している者の報告が増えている。オミクロン株は、従来の株との違いについてまだ、はっきりしないことがあるようだ。これに対して、日本では、3回目のワクチン接種が始まった。病床を増やすと報じられている。 

 このような環境下、オリピック ・パラリンピックの場においても政治的に緊張を高めることは歓迎できない。各地域は、平和のためのイベントとしての目的を最大限に尊重するべきだ。


〈参考〉

オリンピック憲章 〔2020 年 7 月 17 日から有効〕 国際オリンピック委員会

https://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2020.pdf



このブログのタイトルについて

 

このブログの名は「過程的なノート」である。私が、何故このブログの名にしたかというと、何かについて考えていくことについてをこのブログの名にしようと考えたからだ。

 私は、今日、パウロフレイレ『被抑圧者の教育学』(亜紀書房)を読んでいた(✳︎1)。その時、パウロフレイレの言葉に心をとめた。パウロフレイレのいっていることからこのブログについて思い出した。

 

著書の中から、一部を抜粋する。

「 課題提起教育において、人間は、世界のなかに 、世界とともにあり、そしてそこで自分自身を発見する方法を、批判的に知覚する能力を発展させる。かれらは世界を静止した現実としてではなく、過程にある、変化しつつある現実としてみるようになる。」(パウロフレイレ

 

世界は変わり続けている。私は、この世界を知覚して、どう理解していくか。こういったことを考えることがある。私の生、これまでの日々の中、そしてこれからすごすだろう日々の中で考えること、つまり把握するために取り出したものをここに書き記すことになる。それは今という時点であり、それは一部、未来に向かっての過程となる。私は、私の生が終わるその時まで、そういった今という過程を取り出すことになるだろう。そのことをこのブログの名としようと考えた。そして「過程的なノート」と名付けた。

 

私は、今日、パウロフレイレの著書を読んでいた。パウロフレイレがこのようなことをいっていたのを知った。私は、その時にこのブログをこのように名付けた理由を思い出した。今日、そのことを記した。

 

 

✳︎1

今日とは、2021年10月23日である。

引用したのは、パウロフレイレ『被抑圧者の教育学』(亜紀書房)。P87から。翻訳は、小沢有作・楠原彰・柿沼秀雄・伊藤周。第1版第1刷は、1979年5月30日発行。なお新訳がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バングラデシュでおきたテロと英国の国民投票の結果を受けてのメモ(2016/07/05)

2016年7月5日に書いたものを誤字脱字を直し、加筆したものを再掲載する。(2021年4月9日)



バングラデシュでおきたテロと英国の国民投票の結果を受けてのメモ>(2016/07/05)

https://www.twitlonger.com/show/n_1sos6g7





バングラデシュでおきたテロと英国の国民投票の結果を受けてのメモ>

バングラデシュでおきたテロで、日本人も犠牲になった。犯行グループが、外国人を標的としたテロである可能性があることとその可能性が強まっていると報じている。外国人を標的とした可能性があるのは、犯行グループが人質を取って立てこもったときに、バングラデシュ人と外国人、イスラム教徒とそれ以外に分けようとしたという証言からであると報じている。このテロで犠牲になった20人の国籍をみると、日本人、イタリア人、バングラデシュ系米国人、インド人、バングラデシュ人。現在、バングラデシュでは捜査が続けられている。




つい先日は、英国がEUの加盟国でいるか/いないかを決めるための国民投票をした。その結果は、EUから離脱することに投票した英国人の方が多かった。開票結果は「離脱」が51.9%「残留」が48.1%。現在の英国の首相は与党である保守党のキャメロン党首だが、キャメロン首相は国民投票の結果を受けて辞任することにした。キャメロン首相は英国がEUの加盟国のままでいることを訴えてきて、国民投票の結果をうけてその責任をとるかたちで辞任を表明した。

 その後、英国がEUから離脱した方がいいと主張してきた、有力政治家の進退が報じられている。キャメロン保守党党首の後任を決めるための党首選では、離脱を支持する意見を述べてきた有力候補であったボリス・ジョンソンロンドン市長が不出馬を表明した。英国のEUからの離脱運動を主導してきた英国独立党のナイジェル・ファラージ党首は、党首を辞任することを発表した。


「離脱派」の有力者の進退が報じられているが、英国がEUの加盟国をやめた方がいいと主張してきた「離脱派」は運動中に報道によると次(引用)のようなことをいってきていた。国民投票が終わった後、EUの加盟国のままでいるか、離脱するかをめぐって、国民投票の結果がでた後も双方の意見が交錯していることが報じられている。



〈引用〉

「離脱派は運動中、EUへの負担金が浮けば、財政難の国民保険サービス(NHS)に週あたり3億5千万ポンド(約480億円)を拠出できると主張した。ところが、離脱という結果になった途端、「使途は約束していない」「誤り」などと、公約を否定し始めた」。一方で、「残留派」も残留することの経済的な話しばかりを訴えてきた。(2016年7月5日朝日新聞朝刊)。




 日本人も犠牲になったバングラデシュのテロと英国の国民投票の結果の今後は、現在進行中ではっきりしないことも多い。この二つの事件に興味をもつのなら、排外主義とポピュリズムを考えたり、日本の将来を考えていく上で、学ぶことがあるだろう。


〈参考〉

杉田さんはポピュリズムについてこの著書で次のように言っている。

杉田敦著『政治的思考』(岩波新書

<<引用>>

P97〜P99 第4章 権力 ーどこからやってくるのか

「 ポピュリズムとは何か

従来の主権的な権力が無力になり、問題を解決できなくなっていく中で、問題を自分たちの外部にある何かのせいにしようとする傾向が強まっています。これは、問題は自分たちとは関係がなく、外部からやってくるという発想にもとづくものです。誰か悪い人たちが自分たちに迷惑をかけている。彼らを攻撃しさえすればよくなるという考え方です。そして、これは現在、ポピュリズム現象という形で出てきています。

ポピュリズムを批判するのは難しい。へたをすると、民主政治そのものを批判することになってしまうからです。民主政治は多数派の意見に従うものです。多数派の意見が愚かだとしてそれを批判すると、民主政治そのものを批判することになってしまう。多数派よりも正しい少数派に従えというのでは、民主政治とはいえません。しかし、かといって、民主政治なら何でもいいことにはならないでしょう。ゆがんだ民主政治は批判されなければなりません。

民主政治への批判にならないように、ポピュリズムを批判することは可能でしょうか。それは、ポピュリズムの定義によります。私は、ポピュリズムとは、多数派にとって不都合な問題をすべて外部に原因があることで、真の問題解決を避ける政治であると定義したいと思います。

多分多分どういうものがポピュリズムの例といえるでしょうか。ヨーロッパでは、移民の排斥がその典型でしょう。第二次世界大戦後、ヨーロッパでは、旧植民地などから多くの移民が移り住み、低賃金労働を担っています。彼らは社会に貢献しているのですが、こうした移民がいるから自分たちの雇用が失われ、治安が悪化しているとして、ナショナリズム的政策をとる政党が力を伸ばしています。経済問題をそれ自体として解決するのが難しいため、移民のせいにしているという面が否定できません。

…」




✳︎

 ダッカ・レストラン・襲撃人質(バングラデシュで起きた)テロ事件は、2016年7月1日夜(現地時間)、武装した7人がバングラデシュホーリー・アーティザン・ベーカリー(the Holey Artisan Bakery)を襲撃し、数十人を人質に取った事件。死者負傷者が多数出る凄惨な事件となった。

 襲撃犯が襲ったレストランは、バングラデシュ首都のダッカにある。外交関係施設などが集まるグルシャン地区にある。犠牲になった外国人は18人で、イタリア人が9人、日本人が6人、インド人が1人、アメリカ人が1人。警官が2人亡くなっている。2人の民間バングラデシュ人が亡くなっている。襲撃犯は全員バングラデシュ人、うち6人が死亡。

(2021/04/09)追加

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政治的思考 (岩波新書)

政治的思考 (岩波新書)

  • 作者:杉田 敦
  • 発売日: 2013/01/23
  • メディア: 新書


自由貿易を考える上でのメモ

 かつて、川上から川下までといったような産業構造*(1)から、グローバル化と情報化の進展で、篠原三代平がいったようなブーメラン効果のようなものが生じた。このような過程は、グローバルな水平分業の深化の中に、日本と呼ばれる地域も位置する過程であったといって良いだろう。ブーメラン効果のようなことが生じながら、グローバル化が深化していった。
 この時に、経済主体にとっては、代替と補完を伴う選択をすることになった。主体にとって、主体的な意思決定を繰り返してきたその結果が、現在のような輸出と輸入の関係になっている。このような経済主体の意思決定がどれだけ主体的に出来るかが主体にとっては重要になる。そのためには、主体が経済活動をする地域がどれだけ主体的に活動できるかが重要となる。これが、経済学における「主体の自由主義」である。
 時と場合によっては、「新自由主義」が悪の権化のように語られることがあるが、経済学における主体の自由主義とは、違う文脈であることは、注意してほしい。主体の経済活動によって、経済活動として観察される分業は、変化をし続けている。
 現在、日本は、韓国に対して、貿易上のレギュレーション変えようとしている。日本と韓国の間で、このことで対立している。日本は、現在、自由貿易を唱えているが、私が理解する自由貿易は、経済学における主体の自由主義を根本とする。現在、日本が主張する、あるいは、韓国が主張することが、自由貿易を考える上で、主体の自由主義に根ざしているかは、留意してほしい。

 

 

「マクロ的に観察される分業」を「経済活動として観察される分業」に書き換えました。(2019年7月28日 15時30分)

 

*(1)

「風上から風下まで」を「川上から川下まで」に訂正しました。(2019年10月6日)