過程的なノート

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自由貿易を考える上でのメモ

 かつて、川上から川下までといったような産業構造*(1)から、グローバル化と情報化の進展で、篠原三代平がいったようなブーメラン効果のようなものが生じた。このような過程は、グローバルな水平分業の深化の中に、日本と呼ばれる地域も位置する過程であったといって良いだろう。ブーメラン効果のようなことが生じながら、グローバル化が深化していった。
 この時に、経済主体にとっては、代替と補完を伴う選択をすることになった。主体にとって、主体的な意思決定を繰り返してきたその結果が、現在のような輸出と輸入の関係になっている。このような経済主体の意思決定がどれだけ主体的に出来るかが主体にとっては重要になる。そのためには、主体が経済活動をする地域がどれだけ主体的に活動できるかが重要となる。これが、経済学における「主体の自由主義」である。
 時と場合によっては、「新自由主義」が悪の権化のように語られることがあるが、経済学における主体の自由主義とは、違う文脈であることは、注意してほしい。主体の経済活動によって、経済活動として観察される分業は、変化をし続けている。
 現在、日本は、韓国に対して、貿易上のレギュレーション変えようとしている。日本と韓国の間で、このことで対立している。日本は、現在、自由貿易を唱えているが、私が理解する自由貿易は、経済学における主体の自由主義を根本とする。現在、日本が主張する、あるいは、韓国が主張することが、自由貿易を考える上で、主体の自由主義に根ざしているかは、留意してほしい。

 

 

「マクロ的に観察される分業」を「経済活動として観察される分業」に書き換えました。(2019年7月28日 15時30分)

 

*(1)

「風上から風下まで」を「川上から川下まで」に訂正しました。(2019年10月6日)