このブログのタイトルについて
このブログの名は「過程的なノート」である。私が、何故このブログの名にしたかというと、何かについて考えていくことについてをこのブログの名にしようと考えたからだ。
私は、今日、パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(亜紀書房)を読んでいた(✳︎1)。その時、パウロ・フレイレの言葉に心をとめた。パウロ・フレイレのいっていることからこのブログについて思い出した。
著書の中から、一部を抜粋する。
「 課題提起教育において、人間は、世界のなかに 、世界とともにあり、そしてそこで自分自身を発見する方法を、批判的に知覚する能力を発展させる。かれらは世界を静止した現実としてではなく、過程にある、変化しつつある現実としてみるようになる。」(パウロ・フレイレ)
世界は変わり続けている。私は、この世界を知覚して、どう理解していくか。こういったことを考えることがある。私の生、これまでの日々の中、そしてこれからすごすだろう日々の中で考えること、つまり把握するために取り出したものをここに書き記すことになる。それは今という時点であり、それは一部、未来に向かっての過程となる。私は、私の生が終わるその時まで、そういった今という過程を取り出すことになるだろう。そのことをこのブログの名としようと考えた。そして「過程的なノート」と名付けた。
私は、今日、パウロ・フレイレの著書を読んでいた。パウロ・フレイレがこのようなことをいっていたのを知った。私は、その時にこのブログをこのように名付けた理由を思い出した。今日、そのことを記した。
✳︎1
今日とは、2021年10月23日である。
引用したのは、パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(亜紀書房)。P87から。翻訳は、小沢有作・楠原彰・柿沼秀雄・伊藤周。第1版第1刷は、1979年5月30日発行。なお新訳がある。