過程的なノート

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ロック

 どうしたんだ。髙橋幸宏が逝った。鮎川誠が逝った。若者だった僕らのヒーローだ。私は、当時の若者の一人であった。私は、YMOを聴いた。YMOを知ったのは、中学生の頃だった。同級生がシンセサイザーを買って、ひいていた。彼はYMOのように音楽をやりたかったのだろう。YMOの話をしていた。たぶん、それがYMO知った一番最初のことだったと思う。当時の若者の間では、音楽家の中でも特に別格の存在という認識があった。未来の音楽という紹介があった。アイドルの歌謡曲だけではなく、ビートルズを聴いていた若者は少なくない。そういう若者の一人であった。ビートルズ世代ではない。ビートルズの興奮がとっくに冷めた世代である。パンク、ニューウェーブが元気な時代だった。ハードロック、ヘビメタ、フュージョンも元気だった。ポップソングがよく売れた。音楽が元気よかった。内田裕也がロックロールと叫び。シーナ&ザ・ロケッツがロックを演っていた。その頃、音楽番組のベストヒットUSAがプログラムされている。記憶に残っている諸氏がおおいにあることと思う。ミュージックビデオの全盛の時代の幕開けである。アメリカではMTVがプログラムされている。ミュートマジャパンがローカル放送でプログラムされたいる。ジャガーさんやフレディくんが懐かしい。
 YMOは、解散ではなく散開といった。シーナ&ザ・ロケッツのシーナと鮎川誠は、死ぬまでバンドを続けた。YMOのメンバーは、その後もそれぞれの音楽性を発展している。タワーレコードのコピーは、“NO MUSIC, NO LIFE.”。音楽が好き。私は、若者時分のように熱心に音楽に注力して聴けなくなっても、常に音楽にふれてきた。
若者の時、部屋で聴いた音楽の一つがYMOであり、髙橋幸宏だった。
高校生の時、友達と下北沢を歩いている時に、たまに鮎川夫妻と小さな女の子を見かけた。お父さんとお母さんに手を引かれて歩く子供の姿を憶えている。手を引かれて歩く小さな女の子がとても可愛かったと印象的に憶えている。シーナと鮎川誠、夫妻がとてもかっこよかった。親子を見かけるとそのことを話していた。
 幸宏が去り、鮎川誠が去った。どうしても行かなければならないと思った。行きたいと思った。代田橋の駅に降りた。何年ぶりのことだろう。駅前まで人の列が続いていた。私は、参列の後ろに並んだ。その後もこの参列に加わる者がいた。
 今の若者はロックをどう聴くのだろう。参列が歩む。祈りを捧げるには僅かな時だった。祈りは時を改めてもよい。この時にここに来れたことをROCKに感謝する。
(2023年2月4日)