過程的なノート

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原子力発電にまとわりつく虚構性的対立とそこから脱するための第三項

大澤真幸『増補 虚構の時代の果て』(ちくま学芸文庫)を読み直している時、気になる記述があった。それを参照して、原子力発電に関わる対立を考えている。

P214〜P215

人が虚構に準拠して行為するのは、その当人が、問題の虚構(現実と)信じているからではない。そうではなくて、その虚構を現実として認知しているような他者の存在を想定することが出来るからなのである。当人自身は必ずしもその虚構を信じてはいない。

人々の行為を規定しているのは、何を信じているかではなくて、何を信じている他者を想定しているかである。自らは虚構を信じていなくても、その虚構を信じている他者を想定してしまえば、虚構を信じているものと結果的には同じことをやってしまう。

ここで「虚構を信じている」ものの「信じているもの」が虚構であると「信じているもの」がいる。

脱原発を訴えているものたちは、原子力発電が危険なものであり、また制御が困難なものであると考えている。いったん大きな事故(チェリノブイリ、福島第一原子力発電所のような)をおこしてしまうと、放射線物質がもれ、これがあっちこっちに散らばってしまい、環境を汚染する。放射能は、人体に深刻な影響、つまり生命に関わるような影響を及ぼす。放射能が消えるまでに長い年月かかるために、その間人は放射能に冒され続ける。

このような危険な原子力発電を推進するものがいる。

推進するものたちは、原子力発電が必要なものであり、制御可能なものであると主張している。福島第一原子力発電所の事故が起きてしまったが、これは安全について過信があり、そこから認識を改め安全を確保した。深刻な事故などを起こさないで安全に運用することが可能である。安心していいという。

原子力発電の立場の人は原子力発電を推進するものがいうこのようなものが信じられない(虚構である)という。

原子力発電を推進するものとそれに反対し脱原子力発電を目指すという立場の対立から、ここで二者択一的な二項対立の構造がメディア的な次元に現れている。
さらに大澤真幸の引用を進めて、メディアの次元に二者択一的な二項対立の構造がたち現れること、そのことに規定されて行為しているという現れもみえてきそうだ。つまり、原子力発電に賛成するか反対するかという構造がメディアに現れることによって、あなたはどっちだという規定に従って行為する。


こういった構造、どっちを選ぶのかという選択を迫る構造が現れると、そこに脅迫的なものを感じてそこから後ずさるものが出てくる。また、このような対立に嫌気を感じるものも出てくる。


現在の日本においては原子力発電所が稼働している。また使用済み核燃料をどのようするかという問題が控えている。

こういった現実の中原子力発電に関わる諸課題をどうするかと考えた時、第三項的な視点がたち現れてくる。

ここに、2011年9月19日のasahi.com「原発、賛否の立場超え 「脱」の発想に柔軟性」の記事がある。

ここでは、第三項を 

「推進派と反対派の分断」が問題視されてきた原発論議。そこに「推進/反対」の二項対立を超えた動きが見え始めている。両派が同じテーブルにつく場を設ける動きがあるほか、「何でも反対」「何でも賛成」ではない“第三項”的な立場も現れている。

ととらえて紹介している。

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201109190085.html

詳しくは記事を読んでいただきたい。


原子力発電といったとき、それに賛成するものと反対するものという二者択一、二項対立のたち現れとなる。しかし、現実的には、原子力発電と今後ととらえて考えて、先に進むためには第三項の中に入って出て行くしかないのだろう。

増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)

増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)