過程的なノート

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日本の「かわいいは正義」の考察 α2

バトリシア・ビッチニーニの<新生児>Newborn.2010 Phote: Graham Baningを見ると、この中に日本の「かわいいは正義」が隠れているように見える。

http://www.artwhatson.com.au/roslynoxley9gallery/works_31/newborn

この作品は、「卵胎生であるカモノハシと人間の子のハイブリットの変異体である。」と説明されている。

東京アートミーティング トランスフォーメーション
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/118/4
東京都現代美術館

『トランスフォーメーション』

トランスフォーメーション

トランスフォーメーション


見ての通り新生児である。この新生児を見てどのように感じるであろうか。まず、彼か彼女か分からないが、人の子であると一瞬見て思うだろう。しかし、そこに違和感を感じる。次に、かわいいと感じるであろうか、かわいくないと感じるであろうか。ここには幼さ故にかわいいと感じさせられるものがあるではないだろうか。そして、なんか違和感を感じさせるものがあるのを瞬時に見て取るだろう。まず、その違和感を感じさせるものの原因は何かと視線は動き、その先に、鼻、手、脚、尾を見つけるだろう。ここには違和感を感じながらもかわいいと感じるのが、新生児という幼いものへのまなざしのためであるという本質が隠れている。また、見たものは人の新生児というイメージとこの現実の像の間に食い違いを感じているであろう。ここに自分が持つイメージと現実の像との間の「視差」を認める。違和感とはこの「視差」故に感じるのである。これらの一連のことは瞬時になされるだろう。バトリシア・ビッチニーニの<新生児>Newborn.2010は強い違和感を感じるような視差を意図的に表現したものであるために、ある種のグロテスクのようなものに感じる体験を持ったものもいるだろう。見たものは、ここに違和感をともなった視差をえることが顕著に分かる表現になっていることを見つけるのではないだろうか。

日本で「かわいいは正義」といわれる「かわいい」とはどのようなものであるのか。
私はこの「視差」を用いることで新しい「かわいい」を生み出し、それを押し進めることで「正義」であると主張するものであると考えている。パトリシッア・ピッチニーニの<新生児>Newborn.2010はまさに視差を用いることで違和感を感じながらも「かわいい」を感じる日本の「かわいい」を極端な形に表現した例として参照できる。

ではこのメカニズムを考えてみよう。
あるかわいいというイメージを浮かべてみる。それを現実の像に写したとする。そのときイメージと現実の像の間に「視差」が生じる。この視差を感じるとき、違和感をともなうだろう。しかし、あるイメージがかわいいという意味で成功していれば、「視差」をともないながらも現実化された像には「かわいい」がある。この違和感をともなう「視差」を感じる像には、かわいいの本質が際立つことになる。この視差の中で際立ったかわいいのアスペクトを抽出する。このかわいいのアスペクトを練り上げてそれを表現に落とし込む。これが「かわいいは正義」の「かわいい」の正体である。

ではどのように正義を主張しているのであろうか。視差をともなうことから発見された「かわいい」を推進することでそこに開放感を感じ、かわいいことに自由であることが「正義」であると主張している。

視差をともなうことでつくられてきた「かわいい」はその発見で領域の拡大がなされてきた。しかし、視差がともなうことでの「かわいい」の領域の拡大がなされないでいると、その領域の規定が確定され領域内部における差異化が進行する。この差異化は際立つためにされる。差異化が進めば進むほど、差異と差異の間は近似したものとなる。このように差異が近似するために差異は際立つことが出来なくなる。そして、差異と差異が近似したものになる状況では、際立てないために息苦しさを感じるようになる。このような状況下では、開放感を感じることと、かわいいことに自由であることが出来なくなり、「正義」を押し通すことが出来なくなる。もちろん領域の拡大がされ続けている時も、領域内部では差異化が行われている。しかし、領域の拡大が行われている時より、領域の拡大がなされていない時の方が著しく差異化しようとするのではないかと想像される。領域の拡大が続いている時もその領域を規定しようという働きがある。しかし、領域が拡大し続けている時は規定の作用は流動的になるだろう。さらに、差異化も流動的になるだろう。

かわいいは正義」であるために、「かわいい」の領域の拡大をし続けなければならない。では、「視差」をともなうことで発見された「かわいい」の領域拡大はどのようにして可能であろうか。


ここできゃりーぱみゅぱみゅのMV「PONPONPON」をみることでかわいいの領域を拡大する試み例を見てみよう。

きゃりーばみゅばみゅの「PONPONPON」は曲、MVはネット話題になった。
まずはビデオを見ていただきたい。

このMVを制作した田向潤監督へのインタビュー記事を参照しよう。

「きゃりーぱみゅぱみゅ、原宿から世界を席巻!? 田向潤監督が明かすMV「PONPONPON」が出来るまで!!」
http://white-screen.jp/?p=9761


変顔とかブログにアップしてたり、ファッションにしても、ほどよくズレてる感じがすごくうまくて、こういう子たちは“カワイイ”って言葉を使ってるんだけど、その言葉の概念を少し広げることが出来る人だなって。MVもそういう方向を狙っていて、“カワイイ”の使用範囲を広げるべく、「これカワイイのか?」っていう結構ギリギリのところを攻めています。


田向潤監督は、このようにかわいいの領域を拡大することをビデオ制作する上でのコンセプトの一つであるとうち明けている。

田向潤監督は太っているダンサーを採用してかわいいの領域の拡大する試みのエピソードを次のように話している。

ダンス歴20年のダンサーさんで、この体! なんです。これもカワイイっていうことの解釈の仕方で、一般的には“カワイイ”というと太っていることはマイナスかもしれませんが、でも単純に見た目のシルエットとか、太っている人ってカワイイなってことで、キャストしました。

太っているということはかわいい洋服を着れないとかいわれたり、一般的にかわいいにとっては積極的に受け止められていない。ところで、ぽっちゃりとかふわふわとかはかわいいのアスペクトとして一般に広く受け止められている。太っているの中にはぽっちゃりとかふわふわといったかわいいのアスペクトが隠れている。そこで、一般に太っているということがかわいいに積極的に受け入れられていないというのを利用して「視差」をえる。そして、この「視差」からかわいいのアスペクトを抽出する。それを練り込んで表現する。ところで、田向潤監督のこの試みが成功しているかどうかは読者にゆだねたい。

このような試みはかわいいの領域の外部から、かわいいにとっては異質なものをもってくることによって「視差」をえ、そこからかわいいのアスペクトを抽出しているととれるだろう。外部から異質なものをもってくることで「視差」をえるという試みがかわいいの領域の拡大に積極的に活用されている事例と考えられるだろう。


参考
中沢新一チベットモーツァルト クリスティヴァ論」『チベットモーツァルト』(講談社学術文庫

チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)

チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)




かわいいは正義」とはこういうものであろうと論じたものです。そして、独断的なものであろうことから逃れることとが出来ないでしょう。さらに試論的な位置づけです。
ですから、かわいいについて論じているこのような書籍があるとか、このような主張があるとか、このようなかわいいがあるとか、私はこう思うというようなものがありましたら、お寄せください。そこで、新たな認識をえられたら、それをもとに再構築をはかりたいと思っています。