過程的なノート

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メモ「日本学術会議が遺伝子の特徴を示す時に使う「優性」や「劣性」という用語について、誤解を与えるとして、別の表現を使うことを推奨するという報告書をまとめたという記事を読んで」

 

 山崎(@puremalt2010)さんが仰ることは、もっともなことだと思う。そして、同時に、こういった検討がされたことに関しても理解を持つ。私は、表現する時に、自由についての息苦しさを感じる。だから、山崎さんのようなこういった指摘が必要であると思う。言葉狩りのようなことが起きることに関して、無関心になってしまうと、危険ではないかという懸念を持つ。しかし、一方で、他者の自由や人権について、平気に無神経になれる者がいるように感じる。

 

 現代は、私のような者が、このようにtwitterで自由に意見を述べることが出来る。これは、技術の発展が社会にもたらした恩恵である。インターネットのような情報通信技術が開発される以前、マスメディアというような媒体しかなかった時では、私のような者が意見を自由に発信する機会は、限られているか、難しいことだった。このように、私人の資格で自由に情報が発信できる環境は、素晴らしく、その恩恵は大きなものである。

 一方で、こういった環境は、情報の信頼性や、真偽の確認が疎かなものであっても、フィルター機能を通さず発信することが比較的に容易である。マスメディアは、情報の信頼性や真偽について、基本的には、確認して発信していることだろう。FakeNewsというような、誤っている情報が拡散される可能性があり、ファクトチェックの必要性が強調されている。

 

 こういった環境では、差別や暴力を扇動するような意見を拡散することが安易に出来るだろう。そして、かつて優生思想のような思想が、世界中を戦争に巻き込んだ時代があったことから、そういった思想的なものを背景にしながら、優劣から、差別や弾圧が起きやしないか不安に感じる息苦しさがあるのではないだろうか。遺伝子操作やゲノム編集のような技術が現実的になって来ている。だから、「優性」や「劣性」という言葉の使用について、デリケートになる必要性が生じ、教科書でどう表記するか検討することになったのではないかと感じる。

 

 

〈参考〉

 

「遺伝子「優性・劣性」“高校教科書では別表現を”日本学術会議」(NHK WEB)(2019年7月8日 4時55分)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190708/k10011985881000.html
〈引用〉


遺伝子の特徴を示す「優性」や「劣性」という用語について、日本の科学者でつくる「日本学術会議」は、一方が劣っているかのような誤解を与えるとして、今後、高校の教科書では別の表現を使うことを提案する報告書をまとめました。

 

「@puremalt2010」
https://twitter.com/puremalt2010/status/1147960723869298688


逆に劣っていて何が悪いんだという話にも。言葉狩りして事なきを得るような対応は適切なのか? そのうち人は「劣」の意味すら理解不能になり、差別感情を生んでもその認識すら出来なくなるのでは?

https://twitter.com/puremalt2010/status/1147967980409483264

あと…「高校の教科書では表現を改める」というのが…。実はこういうのは社会科にもあってw、例えばフランスの宗教改革者「カルヴァン」は中学では「カルビン」と、臨済宗を日本に齎した禅僧「栄西」は中学で「えいさい」高校では「ようさい」と教える。生徒はこれはこれで混乱する。度が過ぎる便宜…