過程的なノート

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日本の民主主義とメディア(2012/03/23)

日本にはたくさんの人が住み、それぞれが個人として物事を考えて意見をもつ。このように日本は個人が主張をもつ自由が許されている国家である。そして、それぞれに個人がもつ意見が他人と同一であることを強いられていない。このような環境が日本という国家の枠組みの中にあり、そこに住む国民(市民)にある。日本という国家は一般的には民主主義国家とされている。このようにみてみると民主主義という制度では国家の内部に多様な主張があることが前提になっている。日本内でもインターネットを利用すると、様々な主張に出会うことになるだろう。日本の民主主義の中に様々な主張があることが分かる。日本に様々な主張があることから、多様性があると言っていいだろう。日本の中には多様性があることから、つまり、様々な主張がそれぞれ相互に影響しあうことから生じるゆらぎがある。そのゆらぎの中から、態度をともなった志向性が生まれる。しかし、最近問題視されていることがある。それは日本の民主主義の課題として語られている。つまり、それはこの志向性を形作るメカニズムに、日本的な課題が生じているという主張なのではないだろうか。

◇この志向性を形作るメカニズムに日本的な課題があるというのは、最近どんな議論の中に隠れているのかというと、メディアが多様性を担保できていないという内田樹の意見であったり、マスメディアを批判するとき使われるマスゴミという表現に象徴される意見だ。



◇さらに、日本の民主主義に課題があるという意見だ。東浩紀の「一般意志2.0」や、宮台真司は日本は民主主義ではないといい、柄谷行人は市民の行動がない民主主義は不十分だという意見だ。


◇マスメディアに課題があるというのは、つまるところ、従来の世論形成メカニズムが現在的な課題に対応しきれていないために問題が生じているという意見だと考えることも可能であろう。最近では福島第一原子力発電所が事故を起こした当時、吹き出した。テレビ、新聞などのマスメディアの誤報道やらそれに対する非難、そしてその後のマスメディアの対応への非難に象徴されるような事態だ。このような事態に、ネット内でマスメディアに補完的にそれを訂正する正しい情報が伝達されたり、主張がされた。もちろん、ネット内でも誤った情報はある。ネット内で流通する情報は、マスメディアを代替することすらある。このようなネット内のメディアでのジャーナリスティクな活動は、マスメディアを補完しているととらえるのが現在的な見方であろう。これからマスメディアがどうなっていくのか。新聞社の経営が危機に陥るのではないかというような意見すらある。マスという媒体が経営的に困難な状態になれば、現在のマスメディアとそれを補完するネットメディアという関係がどうなるのか今は分からない。マスメディアも模索中であろう。そして、ネットメディアでもいろんな試みが登場していくだろう。
アメリカでは新聞社の中にはたちいかなくなったところもある。一方で、日本の大手新聞社はまだ一社もつぶれていない。これからジャーナリズムはどのようになっていくのだろうか。立花隆によると、ジャーナリズムは形を変えて、決して死ないという。)

日本の民主主義に課題があるというのは、市民(国民)の意見をどのように国政、自治体の政治に反映できるかということだろう。これは以前から自然保護運動に代表されるような市民の活動がみられる。これが現在ではより直接的に多様な主張を市民自らの手で合意形成して、それを政治的な課題としてあげ、実現しようと努力がされている。


今まで述べてきたことは、まず、世論形成に制度的な課題がある。そして、世論をどのように施策に反影するかという課題があるとまとめることが出来よう。

◇これは分権的なネットワーク、つまりインターネット時代にそぐわなくなったという文脈から離して語ることは出来ないだろう。
(新聞の経営が以前と比べて芳しくないのは、インターネット時代の到来と無関係ではないだろう。)

ここでは世論形成のメカニズムは、マスメディアというマスという媒体とインターネット内の媒体の中で働いていると大まかに考えることが出来るだろう。(もちろん、市民運動に代表されるような直接的な政治参加をするということを通して、世論に働きかけるという方法もある。)マスというメディアでニュースが報じられ、解説者や識者、学者などがそれを解説したりしている。インターネットでもマスメディアで主張する人の意見もあるが、一般人まで実に様々な人が様々な意見を主張している。インターネットは既にマスであるという意見があり、そういった指摘はもっともであるが、現在は、分権的なネットワークであるという特徴の方が際立つのではないか。


世論形成のメカニズムは、どのように合意形成をするかということをその内に秘めている。マスメディアでは基本的にそこでされる主張はその読者と相互的なやり取りをとうしてされるのではなく、一方向的に情報の伝達がされる。もちろんマスメディアが世論をまったく無視して報道しているわけではないだろう。世論の後押しを受け報道することもあるだろう。インターネットでは一般人の資格で誰もが情報伝達をすることが出来るという特徴を備えている。そのため、多様な意見を担保することが出来る。また個人が意見を交換したり、議論することが出来る。
実際に合意したという自覚はないかもしれないが、暗黙のうちにそれに合意し、コミットするということがメディア内では行われているのではないか。つまり、その主張を読んだり知ったりするとき、その意見に同意したり、近い意見をもったり、批判的な意見をもったりすることでコミットしていると考えることが出来るだろう。

マスメディアで報じる情報にコミットした場合、それが実際に政策にどのように反影されるか、あるいは反影されないかは、今まで私達が目にしてきた報道と国、政治家の関係から、想像することが出来るだろう。不祥事を起こした政治家の支持率はすぐに低下し、役職を辞退するようになることはまれではない。こういったマスメディアとマス的な志向性は僕らにとって、現実的にどうなったかという経験が多い。しかし、インターネット内にあるメディアでコミットされた志向性がどうなるかということについて僕らの経験は実は少ない。インターネット内にあるコミットされた特に分権的な志向性はこれから僕らの現実の中でどのようになっていくのだろうか。

◇このようにマスメディアとインターネット内のメディアのような分権的なメディアで情報が伝達されるようになっために、マス的な志向性と分権的な志向性がたち現れるようになった。マス的な志向性と分権的な志向性が決して同じような志向性になるとは限らず、マスと分権的であるというその特徴のために、その利害が食い違うことが多いようだ。(例えば、。分権的な指向性がマス的な志向性に挑戦することもあるだろう。(例えば、現在日本は議会制民主主義を採用している。選挙で代表を選び、彼らが市民(国民)に代わり議決して政策を決めていく。日本では直接民主主義国民投票という制度は一部しか実現していない。そこで、日本で直接投票、国民投票という制度を導入して、市民がもっと国の政策に責任をともった関与を高くしようという意見が出てきている。国民が直接投票して決めようというものだ。今まで国民投票という制度がなく、議会で政府の政策を決めていたが、国民投票という制度を導入する。新たに国の制度の中に議会だけではなく、国民に直接加わってもらおうというのは分権的な性格をもつから、分権的な志向性であると言えよう。しかし、それは国の政策を決めるということからマス的な性格を併せ持つことからマス的な志向性を目指していることにもなろう。)

これまで述べてきたことは、つまり、旧来のマス的な志向性と分権的な志向性の間の中から、それらの利害関係をどのように調整できるか。そして、その利害が共存できるのか。これらが日本的な課題の特徴であるとすることも可能ではないかと思う。





補足
この文章は、2012年3月23日に書いたものです。まだ、考えている最中の課題で、他の場所で公開していました。そこで、意見をいただきました。ありがたいものでした。ありがとうございます。いただいた意見を反影したものとはいえません。そして、まだ、過程のものです。しかし、他の場所で公開していたことと、意見をいただいたので、あらためて、主旨を変えないように若干直して、再度公開することにしました。